昭和四十年十一月十三日 十三日会


 茶の湯の本にこんな事が書いてあります。茶道、お茶の道と云うのはどういう事を教えるかと、究極のところは渇を癒すと云うとこにある。例えば咽が渇く時にお水を頂くとそれだと云う訳なんですね。他には何もない。為に茶の道がある。道付けあり、云うならそれには茶室も要れば様々なお茶に必要とするところの小道具類から、又部屋のひとつの飾り付け一つの調度品に至るまで、その渇を癒すことのための潤すことのでける為の準備手配と云うものがいるのであり、その見方使い方頂方と云うものがある。そういう風に書いてあります。信心も同じ事。
 私は信心はとにかく有難くならせて頂く稽古だと一言で云うならば、信心とは有難くならせて頂く稽古だと云われる。有難い生活、それを幸せの第一と有り難い日々を過ごせれると云うことは金でもなからなければ物でもない。
 だから信心とはその有難くならせて頂く稽古だからと云うて自分で稽古がでけると云うものでもない。そこに先生も必要であり会堂も必要であると云うことになるのです。
 先ほどお食事を済ませとりましたら、丁度栄四郎がここへ入って来た。お食事そこでさせて頂いとる。私もそこへ行ってからふっと私思い出したことは、昨日ビールを頂いてから一杯頂いたきりで晩に頂こうと思うて冷蔵庫に入れさしておったことを思い出した。気が抜けてしもうとるかも知れんけれども頂こうかと云ってそして頂いて私コップ一杯頂いてから横に頂いとる栄四郎にあの栄四郎君お前も一杯どうかと、ほんならいっちょ頂こうかち云うてから頂ながら栄四朗が言うことですもん、もうお父さんな、なかなか上手と言う訳です。そしてから後から足を揉んじゃろち言うんですね。
それで御飯を頂いたらすぐそのそう言いながら足を揉んでくれるわけです。そしてそれ足を揉みながら色々話すことですもん。
 栄四郎君は大きくなったら何になるつもりかち言うたら勿論金光様の先生よち、ね、岡山に偉い先生達が沢山岡山に偉い先生達が沢山おんなさると思てるわけなんです。ね、だからその僕も岡山に行って偉い先生になるち云う訳なんです。
 それにはやっぱ子供の時からちゃーんとこげんして稽古しとかにゃでけんち、云うてから(笑い)結局私が本当に真に有難くならせて頂くと云うこと。私自身が有難いと思うこと。教祖の御教えを頂かして貰い、それを私なりに行じさして貰いそこから生まれて来る有難いと云うもの、云うならば今朝の御理解から頂きますとです、福岡の麻生さんが、私先程お初穂の整理をさせて貰いよりましたら麻生さんが、昨日御礼に出てこられたお初穂がそのお初穂の中にあった。この電話番号の通知があったんですね。それに私はあの649と云う番号なんです。55局のまあ649で麻生さんも自分でその無欲と云うことに頂いておられる。ハハアー無欲、秋永先生が側でそれを聞いといてから、麻生お前は欲の深けんで神様がお前は無欲になれて言いよんなさるとぞち言うて、成程そうだと自分でもそれを自覚しとります。そこへですね、私その今日のお初穂のそのお初穂用紙の上に書いてあるのがですね、只55局とだけ思よったら550ですね。550のムヨクなんです。649なんですね。ですから今朝私は55のところまではあの皆さんに話しとった5が二つ重なっておると云うことは5と云うことは仏教的に業である。あの人は業が深いと云う。少しは違うかも知れんけれども、お道の流儀で云うならめぐりのことなんだ。めぐりの深い麻生の家だと、めぐりの深い麻生さんだと、ねえ。けれどもその55の下に0と書いてあるところに私はいよいよ成程と合点さして頂くことなんです、ねえ。いわゆるその深いめぐりがです、5と5に重なっておる。そのめぐりが0になる。0になる為にはどうでも無欲になると云う信心を目指さなければいけないと云うこと。
 無欲と云うこと、いわゆる我情我欲を離れて真の大道を知れよと仰る真の道を知らせて頂いたら、成程わが身は神徳の中にあるんだなあと云う神様の御守護の中にあるのだなあ、神様の保護の中にある私達だと云う心の安らぎと同時にそこから無限無窮と云うか限りない恵のおかげが頂けれる様になってくる。
 先程も私も田村さん、今日は当番でおい出られます。今日は途中で早う帰っておいでそして今のお届けで今日発表しなさいとこういう後から本人からよく聞いて頂きたいのですけども、今朝からお夢を頂いたと、それがどうも何か茶室風のところに障子入れられてある。そこに先生が親先生がおられる。そして今迄かつて見たことのない様な色紙である。それがもう見事な色紙、それが親先生が何かお書き上げを下さろうとしておる。そのお書き下げのそのことがですね、その色紙になんと書いてあるかと云うと一滴の水と書いてあった。それを自分ながらよい額だと思うて入れておる額がしかともない黒淵のまあ額の中にいれておる。そしてそれから客間の所に障子の入れたところ行ったところが、そこには秋永先生が応接台の前に座ってからこういう風にしてから座ってから楽な姿勢をしておられる。ま云うなら行儀の悪い姿勢でその田村さんに何とかそりゃ大変おかげ頂いたですねと。そういう風なことを言われたと、ま色々ありましたですけども、それは大体どういう様なおかげだろうかと、その次が又その茶室の方へ戻っておられたところが陳列の様にガラスの窓がでけておってですたい、そこん中に大黒天さんがあったり俵がこずんであったり、そしてから何とか五百石と書いてあるものが中にいれてある。そしてそれを親先生がおられる。その横からそれを見せて頂いとりましたらですね、誰かの声でですね、それをお前にやると云う様なことを頂いとります。
 後から又田村さんからはっきり聞いて下さればもっと分かるですけどね。それで私はまあその事はともかくとして私が今朝から頂いたお夢とつながっとるねと云って話しましたことでした。
 と云うのは、私は今日は丁度山がおう幾つもあるんですね。それをその私が頂上から見ておるんですけども、山がですね、したる程に大水が入っとる訳なんです。ですから丁度山の頭が此処にも出ておりゃ、あすこにも出ておる。丁度島のようにそれは実に素晴らしい景色なんです。大水がこのずーっと入ってきておる。山が幾つもその山に水がいっぱい大水が入っておる。そういう景色である。そして私はその中にですね、この水の引き方を大事にせよと云うことを頂いた。
 これは私が何時も思ってることですけども、今度の御造営のこともです、とても大体椛目のね、現在の実力とか現在の信心ではでけることにはないと云うこと。昨日一昨日企画の方達が集まられましてから新たに又大変細かい数字を出して、その予算が企画の方達で出来とります。それに五千五百万円と云う膨大な金額になっております。たいしたことなんです。全教の者が本当に力を一つにして御本部にでけました御造営が五億五千万円です。してみるとその十分の一のことを椛目の事を椛目が為そうとしておるのだからね。
 とても普通から考えたらでけるこっちゃないのですよね。特別のお恵と云うものが頂けれるのだろと私はこう思うですね。
 特別のお恵の水が押し寄せて来る様にこれはもう時ならん時に時ならん水が入ってその山を丁度島のように海のような感じでそれが頂ける様な全景なんです。
 そういうおかげを受けられるだろうけれどもです、その水の引き方を大事にしなければならないと云うこと。皆さん体験がおありになるかも知れませんけれど、大水が入りますですね、大水の入った後が大変なんですよ。実はもうあん時はもう洗いどもしなかったらもうそのお水の垢はくよいと残っちゃ落ちゃせんです。そん時にもう夜中に水が引き出したら夜中に起きてそれを綺麗に洗わなければ大水の垢と云うものは落ちないのです。水の引き方を大事にせよと仰る。それには田村さんが頂いとられます様にです、一滴の水と云うことが本当に有難いと。お恵とは本当は一滴の水ぐらいにしか頂いていない。今日迄生きておると云うこと。例えば明日とも知れん病人がです、今日まで生きておった息をしておったと云う様に有難さを感じるであろうようにです、今日もお賄いを頂いておった、今日もおかげで細々ながらと云うそこん中にです、いわば見たこともない様な色紙に水一滴と書いてある。そういう私は有難さと云うものを感じさせて頂けれる信心の基礎と云うものがでけておらなければいけないと、皆さん私がこうやってお話をして参りますと栄四郎が、今日私が一杯どうかち云うたらそして頂いとるんです。お父さんな、後がいかんとじゃん後が足揉んでくれじゃろち、皆さんに例えば先生がこうやって話よると、もう先生の話は必ず参って来い、研け、改まれお供えせろちもう云おうち云うことをいよんなさるとじゃろちこう思うて聞きなさる方もあるかも知れん。
 けれども実際私の言うことを聞いてから足を揉んでみて分からして頂くことなんです。何時の間にか自分の心の中に自分な金光様の先生になると云うことを目指しておるのであり、それでまあいわばまんざら嫌なことではないと云うこと。子供の時からこうやって稽古さして頂いておると云うこと。それが段々させて頂くことになりせねばおられないと云うことになっていくと云う時にです、私はいわばお茶の道と云うものを稽古さして頂くところの様な事柄もです、要は渇を癒すと云うことになるのであり、信心の道もです、こういう様々なです、或場合には差し水を向けられてからしかもそれはハアー先生が参って来い、もう言いなさるとは参って来い、研け改まれお供えせろとどの一言でもです、私が皆さんに聞いて貰っておることは確かにそう聞けばそう聞けるのだけれども、それを有難いと頂かせれる様になり、そうさして頂かなければおられん様になり、止むに止まれん思いでそういう信心がお互いの身に付いて参ります時何を皆さんが感じておることがでけるかと云うことを、やはり信心そうしたことが有難いと云うことを体験して行かれるに違いない。そして成程神様に喜んで頂くということがですね、御教えの中にあることを行じさせて頂くことである。と云うことが分かり神様に喜んで頂くと云うことがそのまま私共に照り返ってくる。それを私共感じるところの喜びであると云う様にです、段々分かって来る。十三日会と云う日に皆さんがこうやって沢山集まられてそして神様の前で何を練られるかと云うことを、どういう信心さして頂いたら神様は喜んで下さるかと云うことであり、どういう様な有り方にならせて頂いたら神様の悲願に応えれることがでけるのかということであり、私は細やかながらこういう信心さして頂いて居れば日々こうして有難いおかげ有難い心の状態になることが出来ると云う発表なさるのである。神様の前でいわゆる親の前でどうすれば親が喜んで呉れるかと云うこと話し合うている子供達と同じである。このいわば情景にその雰囲気を神様が喜んで下さらん筈がない。そういうひとつ様々でございましょう、栄四郎のそれじゃないですけども、ハハアー先生が足揉んでくれと云う催促ばいのと云う程度かもそれは分からんにしてもです、そこはやっぱりそれを求められるならそれに応じていくところにです、信心の道と云うものは体得でけると云うことを知って頂かなければならない。
 信心とは有難くなる稽古なら家でもひとつ有難くなる稽古をです、師匠なしに稽古の場もなしにいわば我流でして果してどれだけの有難いと云うものが身に付くかと云うことを思うてみる時、やはり会堂がいるんであり先生が要るのであり、それを練り合うやはり道心の師と云うものが信心友達と云うものが必要であってお互い共励し合う練り合うと云うことが如何に大事かと云ったようなことも段々分かって来るとこう思うですね。どうぞおかげを頂きます様に。